ホントみたいな
うそ
096:嘘を吐くというのならそれを本当にしてみせて、あなたならそれくらい出来るでしょう
人を突き放して一人になった頃合いで人恋しくなる屈折を何度も繰り返す。まだ襟も固く糊の残ったような制服に悪態をつきながらリョウは好き勝手に歩きまわった。現在寝起きする場所の動向も知りたかったし仲間内で固まっていても得られるものはないと判断した。リョウの所属は明確に味方を減らす。減るだけならマシな方で親しげだった相手に即刻殴られることさえありふれる。それがイレヴンとなった日本人の決まりだ。大衆が恐れるのはイレヴンに関わるということそのものよりも、日本人をイレヴンにした大国に間接的にだが関わるのを嫌う。村八分にされたやつを庇うと自分が次にそうなるということを人は知っている。リョウが靴音も高く歩きまわるのを誰も咎めない。あからさまに嫌そうな顔をするがそれだけだ。日本と日本人は隷属として疎まれる。はっきりとした占領も支配もされていないこの地域でもイレヴンの居住区域や生活圏は明確に締め付けを受けている。
疎ましげな視線が絡みつくのに苛立ちながら自然とそれが少ない方へ足が向く。気づいたら屋外だ。警備をやり過ごしたのかと思ったがやり過ごされたと思ったほうが正しそうだ。だったらそれにのってやる、とリョウは生い茂る庭へ飛び出した。日本庭園を庭として認識するならそこは森に近いと思う。灌木より喬木のほうが多く枝ぶりも鬱蒼としている。軍事施設はおおよそ似たような外観と設置しない案内板で方角を見失う。自分が戻らないことに対する不利益があまりない。そもそもこの施設に収容された事自体特例のようなものだから厄介者が消えても誰も探さないだろう。ともに収容された身内が気になるが彼らも一人で生きていくすべを知らないわけではないし、知らずにいれるほど優しい環境ではなかった。けっと舌打ちして木を蹴りつける。ざわざわと鳴る枝葉が不穏だ。ナンバーズの劣悪な環境はその周囲の保身の歪みだ。エリア11となった国土の外でなお、日本人はイレヴンとして扱われた。
「おいアホ」
淡々とした罵声に睨みつけるのを彼はあっさり受け流した。黒青の長い髪をきつく結っている。尻尾のように彼が動くたびに左右へ跳ねた。リョウが知る女性の誰よりも彼の髪は長い。正面から見ると短髪なのだが一部が突出して長いのだ。紫碧の双眸は大きめであるのにどこか脱力感が拭い切れない。黒く縁取る睫毛は密で化粧したようだ。長い前髪は彼の額だけではなく時折目元さえ覆う。リョウの睥睨にも先ほどの罵倒に対する言い訳もない。静かにリョウの言葉を待っている。
「お前」
「時間だ」
「なンの」
くるりと踵を返す。三つ編みがポンポンと控え目に跳ねた。振り向きもしないくせにリョウが放棄することさえ赦さない。従わなければ明確な手段に打って出るだけの冷静さと酷薄さは備えている。しかも彼はリョウと同じ領分の、イレヴンなのだと。この国土で軍事的に位置を得ている。その彼の働きでリョウたちはこの施設へ収容されたのだ。
「こい、馬鹿」
「お前とはマジでケリつけといたほうがよさそうだな」
こめかみを引き攣らせてうそぶいても彼は乗っても来ない。沈黙が重たくのしかかる。
ひょうと空を切る音がして反射的に上がった手に硬いものが受け止められる。素っ気ない銀の密封がそれが何であるかを教える。
「固形食だ。今食うなよ。それは割り当て分だからな」
満腹になるほど食い倒れた経験はないがまるで常に飢えているかのような物言いに言い返そうとして彼の後をついていく。恫喝も虚勢も彼の前では無意味だ。リョウがどれほど凄んでも眉筋一つ動かないし挙措に乱れもない。
「アキトだ」
「あぁ?」
まだ声が高い。仲間の少年ほど幼さはないがリョウより大人でもないようだ。
「日向、アキト」
軍属階級を告げないのはリョウの心情を慮るより面倒を嫌ったのかもしれないと思うほどぞんざいだ。同じ日本人としての友好より必要事項として告げたような感触がある。
「名前で呼んで欲しいのかよ」
「べつに」
『お前』がたくさんいたら混乱すると思っただけだ。しかもその後に名前を継穂にして話題が広がるのかと思えば違う。沈黙したまま二人は黙々と歩いている。リョウは目的地さえ知らされていない。このまま処刑場とか冗談じゃねぇぞと呟いた。司令部からすこしずつ離れている。
軍事施設であるから警邏も見張り台や警戒の境界線が存在する。どうやらそこへ向かっているようだ。歩くには疲れるが燃料を必要とする移動手段を使う余裕はない。まざまざと見せつけられるそれにリョウは舌打ちする。だんだん人の手が入っていないのだろう自然の繁栄が盛んになっていく。気を抜くと木の根に蹴躓いたり枝に顔面を強打するので暇つぶしにはなった。アキトは慣れているのか全く乱れもしない。きつく結われた三つ編みさえ引っかかりもしない。着いたのは小振りな宿舎で寝起きと見張りを同じ部屋で行う。アキトの手続きにそれまで居た男が従い、ちょっとした挨拶を交わしてリョウとアキトが歩いてきた方へ戻っていく。リョウの方は見なかった。男の気詰まりは明らかにそれまでの仕事ではなくアキトやリョウとの接触にあると言っている。アキトは何も言わずにそこへ入るとバタバタと毛布やマットレスを叩いた。
「適当に座れ。時間はある」
さっきの固形食は食ってないだろうな。あれがここにいる間の配給だからあれ以外はないぜ。言われてみればここは見張りを兼ねているらしいが食料保存を考えていない。リョウは隠しに閉まっていた包みを出して眺めた。路地裏であさった残飯よりはマシだが殊更美味そうだとも思えない。案の定アキトは熱量の確保しか考えてないから味は期待するなと釘を刺した。しけてンな。イレヴンだからな。おい、司令部が遠いぜ。だから二人なんだろう。アキトは動揺もしない。イレヴンだしな。それで全部説明がつくのかよ。つく。即答だった。階級差の存在にリョウは早々に倦んだ。エリア11の外でなおイレヴンはイレヴンでしかない。金と暴力に物を言わせた収容前のほうがよほどマシな生活のようだ。苦い顔をするリョウにアキトがふっと笑った。淡々としているアキトだが感情がないわけではないようだ。微笑む顔は彼の年齢を覗わせる幼さを見せた。だが長い軍属生活は明確な線引の習慣を作る。アキトの微笑みはすぐに消えて年齢不詳の青年になる。表情が消えた時のアキトは年齢という枠さえ消したようだ。リョウは途端にアキトが年上か年下かの見当さえつかなくなる。
「食事の時間が来たら知らせるからそれまでは食うなよ」
アキトの黒髪の蒼さが際立った。
アキトが整えた寝台の上でリョウが寝返りを打った。見張りや当直の仕事からリョウは随分遠ざかった。団体をまとめるものとして最低限参加はしたがそれでも感覚をすぐ働かせることができるほど頻繁ではない。寝台に横になった途端に微睡み、時間の区切りが薄まる。アキトも咎めないからリョウはそのまま少し眠った。リョウが目を覚ました時にアキトは、眠りにつく前のそのままの姿勢でいた。時間が経っていないのかアキトが辛抱強いのかの区別がない。
「…どォ」
「なにがだ」
眠りから覚めたばかりの半覚醒状態はリョウの垣根を払った。本能的に眠っている間起きていてくれたアキトに好意を抱いているのかもしれない。
「寝てた」
「そうだな」
襟巻きのように巻いていたスカーフがない。眉をひそめると顔さえ向けていないアキトが言った。そばにおいてあるだろう。寝ている間に首が絞まったら厄介だから外した。悪びれる様子もない。気後れや罪悪感はないようだ。自分だって眠っている同性などなんの対象にもしない。あぁ、そォ。リョウは何気なく受けてそばのスカーフを取った。落ち着かないとは言わないが無くしたくなかった。半分だけ振り向いたアキトが笑んだ。
「無防備に寝てたぞ。喉に触っても起きなかった」
そのときになってリョウは初めてベルトのバックルが解かれていることに気づいた。どういうことだ。なにがだ? アキトはあくまでも白を切るようだ。元々はなんの警戒もなく眠った自分の落ち度だとわかっているほどにやるせない。ぶつけどころを見失うと苛立ちばかりが募る。男相手に欲情すンのかよ。必要があればな。アキトの唇が月白で紅く映えた。気づけばあたりはすっかり夜闇に満ちている。
リョウは習慣的な仕草として隠しの煙草を出して咥えた。燐寸で火をつける。不用意な火災を避けるために手間を惜しまない結果として古風だ。一息吸ったところで指先からかっさらわれた。アキトだ。水を張ったコップへ押し付けて消火する。アキトの位置が近い。吐きかける息に噎せるくらいには近い。紅い唇が笑んだ。
「煙草の味は、もう飽きた」
瞬間的にしなったリョウの手首をアキトはやすやすと阻んだ。ばぢ、と肉がぶつかる微音がしてリョウの爆発は不発に終わる。アキトが手首を掴む力は強い。そのまま押し倒された。しかも場所は寝台だ。自分のしくじりに悪態をつきたくなった。飽きたって、なんだよ。そのままだ。アキトは妖艶に、笑う。綺麗な顔立ちはその凄みを増すばかりだ。髪の先端がリョウの鼻先をくすぐる。青く透けた幕が下りる。
「触っても起きなかった。ずいぶん、いい暮らしぶりだ」
「お前に言われたかねぇよ」
悪口にさえアキトは怒らない。意味ありげに笑っている。
「それとも、気でも赦したか?」
リョウの拳がアキトの頬を打ち据える。弱点の指摘と明確な手応えがリョウを怯ませた。恐れというより慄えに近い。体が反射的に動いた。図星を指されて相手の口をふさぐという稚気だ。リョウは撤回しなかった。頬を殴りつけた感触が、逃げを許さない。アキトはしばらく黙っていたが紅い唾を吐いた。確かめるように口腔を探っているように虚ろな青碧の目がリョウを映す。歯は欠けてない。治療は不要、か。そのまま唇が重なった。血液混じりの唾液が流し込まれて、リョウが噎せてもそれは止まらない。咳き込みながら嚥下するのをアキトは弛んだ口で見つめた。ぽとりと落ちたアキトの三つ編みがリョウの視界で跳ねる。煩わしげに退けるのをアキトは目線で追ったが積極的に退けようとはしなかった。
「二人きりだ。場面としては最適だ」
酷薄に笑むアキトの顔にそれでも魅了されてしまうのをリョウは呆然としていた。
「名前は?」
「あぁ?」
「お前の、名前だよ」
「知るかよ、勝手に調べろ」
アキトは唸ったがすぐにリョウの隠しを探る。そこにはコードを印刷したカードが縫い込まれている。変換規則を知らない奴が見てもただの線の羅列でしかない。顔写真はなかったがそれ以上の情報が印刷されている。機械で情報を保存するから一度ほころびを捉えれば芋づる式に情報が得られる。アキトは探りだしたカードを眺めていたが不意に口を開いた。
「りょう。サヤマ、リョウか」
リョウは肯定も否定もしない。その対応こそがアキトが掴みかけた情報の裏付けになってしまう。用心深いリョウにアキトは薄く笑んだ。変換規則は案外単純だ。もっと情報が欲しければ複雑な術式で読み取るしかない。てめぇは読めねぇってのか。必要ない。抱く相手の名前以外に必要な情報ってなんだ? 瞬間的に膨れ上がる熱量をリョウが抑えこむのに苦心した。アキトは、読み取れる情報をあえて読んでいないといった。見下げる目線に、虐げられた感性が過敏に反応した。アキトの対応が素早い。リョウの駆動部や関節を尽く潰しにかかる。意識的に動かす前に潰されたそこは緩慢に間延びする。アキトの四肢がリョウの手足に絡みつく。蔓性のそれではないと判っているはずなのにその執拗さは植物のそれさえ上回るように感じられる。しかも圧してくる力は植物などの比ではない瞬間的な圧を帯びる。
「戦闘を経験しながら死んでいないのは幸運だな」
「お前が俺を人質にとったんじゃねぇかよ」
「だから幸運だと言ってるんだよ。敵なら殲滅するだけだ」
少年的な愛くるしさと爆薬という危険性を帯びた仲間の少年に爆破してみろと言った根性は虚勢ではないようだ。しかも一手間違えれば明確にリョウたちを殺していると言う。その言葉に嘘は無さそうだ。戦闘機に生身で戦闘を挑んでしかも勝利した。携えていた武器との具合や運が良かったといってしまえばそれまでだが、それを得ることが出来ずに死んでいったものの多さを考えるとやはり突出する。アキトの指先がリョウの襟を解いた。あらわになる鎖骨のくぼみを指が押す。息を詰まらせるとアキトの笑みが深まった。
「冗談だ」
「あぁ?」
「お前の、名前」
お前の仲間が呼んでいるのを記憶していただけだ。綴りはわからない。あっさりと白状するアキトにリョウの憤りは静まっていく。怒らないな。…べつに。意外そうなアキトに悪態をつきそうになる。
「うそ、の」
嘘のほうがいいことくらいその辺にあるだろ
アキトが吹き出した。顔を背けて息に震える肩にリョウが噛み付く。どういう意味だてめぇ。お人好しさに感心していた。まぁ、だからあんな態勢で挑むのだろうなと思ったら笑えた。手ェどけろ殴らせろ。褒めてる。馬鹿にしてんだよ。アキトの体がごろりとリョウの隣に転がる。しばらく互いの鼓動を確かめるように胸部を探り合ったがとろとろとした緩慢さが二人を捉えた。
「仕事しろアホ」
「オレの名前を呼ばない馬鹿に言われたくないな」
日向アキトだよ。殊更に言い募って逃げ道が消える。だが呼んだら負けな気がする。
「リョウ、か。りょう…良? 感度良?」
とりあえず止めたほうがいい気がした。
「うるせぇアホアキト」
「アホは、要らない」
唇が奪われる。相変わらずアキトはリョウの四肢を抑えて圧しているしそろそろ痛い。駆動部は直に皮膚の奥へ触れるから損傷を受けやすいし治りにくい。筋肉の継ぎ目であるから守りも弱い。
「いてぇ」
「痛くしてる」
しれっとした答えが返る。しかもその働きを弛める素振りもないし気もない。馬鹿野郎どけろ。やだ。ひどく子供っぽい答えだが意志の強さが伝わる。
リョウって呼ばせてるんだ。なにが。あの二人。あの二人が誰を指すかはすぐに解った。リョウと同じ時にこの施設へ収容された二人だ。半ば強引にリョウたち三人の非合法団体はこの施設へ籍を移した。あの男の子にも。男の子? ユキヤか? 主に情報の方面に才を発揮している少年だ。年齢の割に鋭い感性と技術を持っている。リョウ、って呼ばせているのか。そりゃあ、まぁ、なぁ。同じ釜の飯を食った仲間として、それ以上に下層民として所属名の威力がない位置にいるものとして、名字の意味は無い。個体名である下の名で互いを呼んだ。深い意味は無い。
「アキト」
リョウがその名前を口にすると途端にほわりと、笑んだ。幼いように無垢で美しく孤独な。息を呑むリョウにアキトは口付けで謝意を示す。
「ありがとう」
黒く熱い夜が塗りつぶされていく。
嘘みたいな、嘘のほうがいいこと
《了》